三宅島の現地調査が早く終わり、時間が余ったので島内を一回りしてみた。

途中、伊ヶ谷の漁港へ寄ってみたら生島新五郎のお墓が目に付いた。

三宅島の生島新五郎の墓

生島新五郎は江戸時代の歌舞伎役者で山村座の看板役者でもあった。
この生島新五郎と当時、徳川七代将軍家継の生母である
月光院(大奥の最高権力者)に仕える大年寄の江島が激しい恋に落ちた。
江島は月光院の代りにお寺参りをした帰りに新五郎と密会していたために
大奥の門限に遅刻してしまった。

大奥の大年寄は表高600石だが
格式では10万石の大名に匹敵する権力者であったために大事件として扱われ、1500人が粛清され、90人が流罪にされたといわれている。
江島は信州高遠へ流され、生島新五郎は三宅島へ島送りされ、
二十数年この島で暮らし亡くなった。

実際には家継の御側用人で幕府最大の権力者であった
間部詮房と家継の母、月光院とのスキャンダルがらみの政治事件で、
江島を罪人にすることにより間辺部詮房と月光院を権力の座から
追い落とそうとした幕閣達の陰謀であったのだが、
その巻き添えを食ってしまったようだ。

この事件は「江島事件」として歴史に残されている。

生島新五郎の墓石 墓石の周りは寂しい

生島新五郎の墓石はまだ新しいように見えるが、
台座は黒ずんでいて、かなり古いもののようだ。
恐らく、度重なる火山活動や地震の影響で壊れてしまい、
墓石だけ新しくしたものだろうと思える。
墓前には枯れてしまった榊か樒が供えられているだけで、
花の一輪すら見当たらず、物悲しい感じで哀れな風情だった。

遥か海の彼方を見ている墓石

ただ新五郎の気持ちを思いやってか、墓石の正面は
北向きのはるか海の彼方の江戸(あるいは江島の居る高遠か?)に
向けられていたことが、せめてもの救いだと感じた。