2008年03月 17日
風雪に耐えて
野尻湖畔“外国人村”の別荘たち
長野県信濃町・野尻湖畔にある通称“外国人村”に立ち寄った。
“外国人村”は1920年代(大正期)、カナダ人ら欧米のキリスト教関係者たちが
別荘を建てたのが始まり。当時の軽井沢への別荘集中を嫌ったことがきっかけ
という。
雪の“外国人村”から湖と桟橋を望む。1年中、誰かしら来ていて、この時も
クロスカントリーをしている青い目の人と挨拶を交わした。
日本人の姿は見かけない。
マンホールの蓋に彫られているのは、この地で発掘されたナウマン象の姿。
湖上スポーツで賑わう夏に対し、冬は静けさそのもの。
艇庫にはたくさんの船が冬眠中。
風雪に耐えてきた別荘たち。築年数は相当だろう。
外壁や屋根にまめに手を入れている様子が伺える。
どの別荘にも暖炉の煙突が見える。暖房やもちろん、炎の前のくつろぎ、
炉辺談話を愉しむにも、これだけは「はずせない」ようだ。
燃料の薪さえあれば、ガスや電気が使えないときは料理など煮炊きもできる。
石が組まれた暖炉。煙突を外に伸ばしたシンプルな形。
“外国人村”の人々は近隣の日本人に寒冷地に適したブルーベリーや
ルバーブなどの耕作を広め、ジャムやパンのつくりかたを教えたが、
第2次大戦中は「敵国人」として別荘に軟禁状態におかれた時期もあった。
白系ロシア人と結婚していた料理研究家の故・入江麻木さんもその1人と聞く。
今では日本人が圧倒的多数となった軽井沢とは異なり、ここ野尻湖畔の
“外国人村”では欧米の人々と日本人が普通に共存するリゾートとして、
90年近い歴史を刻み続けている。
“外国人村”は1920年代(大正期)、カナダ人ら欧米のキリスト教関係者たちが
別荘を建てたのが始まり。当時の軽井沢への別荘集中を嫌ったことがきっかけ
という。
雪の“外国人村”から湖と桟橋を望む。1年中、誰かしら来ていて、この時も
クロスカントリーをしている青い目の人と挨拶を交わした。
日本人の姿は見かけない。
マンホールの蓋に彫られているのは、この地で発掘されたナウマン象の姿。
湖上スポーツで賑わう夏に対し、冬は静けさそのもの。
艇庫にはたくさんの船が冬眠中。
風雪に耐えてきた別荘たち。築年数は相当だろう。
外壁や屋根にまめに手を入れている様子が伺える。
どの別荘にも暖炉の煙突が見える。暖房やもちろん、炎の前のくつろぎ、
炉辺談話を愉しむにも、これだけは「はずせない」ようだ。
燃料の薪さえあれば、ガスや電気が使えないときは料理など煮炊きもできる。
石が組まれた暖炉。煙突を外に伸ばしたシンプルな形。
“外国人村”の人々は近隣の日本人に寒冷地に適したブルーベリーや
ルバーブなどの耕作を広め、ジャムやパンのつくりかたを教えたが、
第2次大戦中は「敵国人」として別荘に軟禁状態におかれた時期もあった。
白系ロシア人と結婚していた料理研究家の故・入江麻木さんもその1人と聞く。
今では日本人が圧倒的多数となった軽井沢とは異なり、ここ野尻湖畔の
“外国人村”では欧米の人々と日本人が普通に共存するリゾートとして、
90年近い歴史を刻み続けている。
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