2012年12月 22日
智恵子の生家・二本松市
智恵子抄で有名な高村光太郎の妻長沼智恵子の生家は造り酒屋だ。
裕福な家庭でなに不自由ない生活をしていたようだ。
日本女子大を卒業し、光太郎と結婚したが、智恵子が30代のとき、
造り酒屋は倒産し、一家は離散した。
その頃から、智恵子の精神障害は激しくなる。
智恵子は、この生家に愛着を持ち、光太郎と結婚してからも
時々帰っていたようだ。
2階の庭側の四畳半が智恵子の部屋、
光太郎は向かいの九畳の部屋に滞在した。
敷地内に智恵子記念館も併設されていて、十和田湖の乙女の像は、
もう一つ小さいのがあり、ここに展示されている。
順路に従うと、智恵子の絵や紙細工などと並列して、光太郎の
’東京の空’などの詩が寄り添うように展示されている。
レモンには、死の直前、智恵子に正気が戻る一瞬が書かれている。
光太郎の詩は何の技巧にも頼らない素直な詩だが、
読み終わってもその場を離れられないような感情を呼び起こす。
館内は撮影禁止だが、係りの人が一部だけ許可してくれた。
智恵子の生家に少し長くいたので、次の待ち合わせ場所へは急がなくては。
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ
2012年10月 21日
謙信の居城・春日山城は大きかった
上越市にある上杉謙信のお城の近くまで来たので、寄って見ることにした。
車が停められる駐車場はかなり下のほうで、お土産屋や食堂のある麓までは
車道を500メートルほど上らなければならなかった。
ここには、上杉謙信の銅像と春日山神社がある。神社で暇そうに掃除している
いくさ支度の武士がいたので、写真を撮ったら喜んでいた。
ここから、本丸までは、かなり急峻な道を登らなければならない。
妙高まで行かなければならないので、時間がないから、行けるところまで行く
ことにした。
途中、本丸にたどり着くのは難しいと思ったので、引返して、直江兼続の
館跡を見て春日山神社に戻ることにした。
壕のつくりを見ても、これまで見たお城のなかで、一番攻めにくい
大きなお城のような気がした。
謙信は正義の味方みたいに言われているが、かなり用心深い守りの
人だったのかもしれない。
その謙信も部下の所業に嫌気がさして逃げ出したことがあったのだから、
人はみな同じような気がする。
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ
2012年10月 16日
小泉八雲と松江城
松江はとても落ち着いた街である。
松江城のお堀の周辺は武家屋敷があり、
その一つに小泉八雲の旧居と記念館がある。
小泉八雲は、礼儀作法のなかで、日本の最上の美的産物として・・・・
それは礼儀作法を遺伝子のように引き継いだ日本の婦人である。
現世界に今後何十万年かけてもこのような女性は現れないだろうと書いている。
松江城はとても美しく、街並も綺麗だった。
稲荷神社には八雲が通勤時に立ち寄りって気に入ったという
耳のかけたキツネがまだ存在した。
松江城は今日はお祭りのようだ。
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ
2012年09月 15日
関が原 徳川家康の陣地
早朝早くでて,関が原ICまで、新東名経由で行ってきた。
新東名は走りやすく疲れないので、東京からでもそう遠く感じなかった。
関が原ICのすぐ近くに、徳川家康が最初に陣地を張った桃配り山があった。
付近は住宅街や工場など、結構沢山建っていて、昔、戦が行われた
ところとは思えないほど。
戦には地の利が大切だと聞いているが、中心部隊の秀忠軍が
着かないうちに、徳川が勝ったのだから、諸藩のほとんどは徳川に
丸め込まれていたに違いない。
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ
2011年09月 02日
箱館戦争・榎本武揚上陸の地
函館の北、八雲町に近い30キロぐらいの旧鷲ノ木村に榎本武揚率いる
明治元年幕府軍の残党2千名あまりが、豪雪の中上陸した。
ここから、箱館戦争が始まる。
土方歳三など若い武士は、北海道に民主的な独立国家を作ろうとしたが、
約1年ほどの戦いに敗れ夢は実現しなかった。五稜郭で切腹しようとした
榎本はたまたま助けられたが、土方歳三は討ち死にしている。
五稜郭の後方で、守りを固めた要塞が四稜郭で、余り知られていないが、
ここからは函館山が良く見える。
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ
2011年08月 16日
千葉富津 里見八犬伝の点と線
千葉・富津岬の入り口あたりから、少し入ったところに佐貫城跡がある。
本丸まで急峻な山城で、かなり大きな城とおもわれる。ここは房総一帯を
支配した里見家の居城だったことがある。
戦国時代、里見家は相当な勢力があり、北条氏などと張り合っていたが、
その後館山城あたりだけの所領となり、徳川時代には鳥取倉吉に移封
されている。
富浦にある伏姫と八房(飼い犬)の祠をわざわざ見に行ったのだが、
江東区深川の滝沢馬琴の生家、倉吉大岳寺の八犬士の墓、今回の
佐貫城はたまたまの出会いであった。
その後、富津の新舞子海岸に行ったら、遠くに観音様が見えたので
寄ってみた。
いつも遠くから見ていた、東京湾観音だ。
高さ58メートル。
牛久の観音様には及ばないが、近付くと写真も取れないほど大きい。
ここからの景色はとても綺麗だ。
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ
2011年05月 21日
小倉城と明太子
北九州市役所は、福岡と張り合うだけあって立派な建物だ。
北九州市役所の隣に、小倉城がある。小倉城は、秀吉の功労で、
細川忠興が根城にしたお城。
幕末には、長州藩に襲われて、火をつけて燃やしている。
小倉城の脇に、小倉出身の松本清張の記念館がある。少し、時間が
あったので、入ってみた。
帝銀事件・下山事件・三鷹事件・松川事件と裁判の判決に疑問を
抱きながら、真犯人は別にいるという暗示の映画が上映されている。
福岡に戻って、どうしても明太子が食べたくなり、駅の案内所に聞くと、
駅ビルに椒房庵があるという。
早速入って、ビールに明太子を頼んだ。
釜でじっくり炊き込むご飯だけでもおいしいというので、ご飯と味噌汁で
夕食。
こだわりついでに筑紫口のホテルにあるレストランで、トアルコトラジャの
コーヒーを飲むことにした。
ちょっと高いが、お茶のような味は好みだ。
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ
2010年10月 15日
鳥取県 倉吉で里見八犬士の墓発見
滝沢馬琴の小説「南総里見八犬伝」で伏姫が籠もった千葉・富山町の
籠穴は、かつて何度か現地調査日記で紹介しました。
籠穴には、仮想の話とは思えない、恐ろしい雰囲がみなぎっていました。
その後、偶然、東京で滝沢馬琴の生家に出くわすなど、この小説から
私にとって謎めいたことが起こります。
今回も、謎の出来事が起こりました。
里見八犬士は、小説の世界の架空の人物だと思っていたのですが、
ここ倉吉の大岳院というお寺に眠っていたのです。
里見家は、徳川10代将軍に千葉富山を追われ、ここ倉吉に封殺されます。
時の里見家頭領は、29歳でこの地で亡くなります。
このとき、お供の八人が戒名に賢の一字をつけて殉死。
八犬士は実在したのです。
盲目の滝沢馬琴は、小説を現実にしてしまったのでしょうか。
2005年4月10日の旧現地調査日記はこちら
2005年4月16日の旧現地調査日記はこちら
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ
2010年08月 14日
山口・ひかり市の伊藤博文記念館と昼定食
ひかり市は伊藤博文の生まれたところだ。
生家は、公園になっていて、大きな館が二つ建っている。
この館が完成する前に、伊藤博文は韓国で暗殺された。山口は、明治維新後、
総理大臣を大勢輩出している。
近くに、ファミリーレストランのジョイフルがあった。
チキンの昼定食、399円というのがあったので、
おっかなびっくり食べてみた。
うまい、とまではいえないが、よくこんな値段でやっていけるものだ。
店内には、結構、人がいた。
●光市サイト → 伊藤公資料館
●光市大和商工会サイト → 伊藤公記念公園
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ
2010年08月 04日
茨城牛伏古墳群
常陸大宮の近くは古墳が多いらしい。
6世紀後半のものだという。
水戸市内原の「くれふしの里古墳公園」にある「牛伏古墳群」は、
茨城県内でも有数の古墳密集地だ。
「牛伏古墳群」は綺麗な公園になっているが、誰もいなかった。
中央には「はに丸タワー」という埴輪の塔が立っていて、
階段で上れるようになっている。
この「はに丸タワー」は全長(身長?)17.3mで、日本一大きな埴輪ということだ。
6階ぐらいのところには、「希望のはにわ」という埴輪の顔があり、
手を入れると古代のメロディーが聴けるらしい。
ローマの休日の一場面を思い出して、なかなか良い発想だと思ったが
故障していて残念。
一番上は展望台で遠く筑波山も見える。
規模も大きくよく整備されているのだが、階段などが鉄製でなく
木質だったら良かったのにと思った。
●参加ランキングサイト
応援クリックよろしくおねがいします!
↓ ↓ ↓
リゾート物件情報Webへ