2008年10月 22日
これより陸奥 白河の関
かつて坂東(関東)と大和朝廷の勢力の及ばない
蝦夷の国、陸奥とを分ける関であった白河の関は
当然、奥州街道である国道4号線沿いにあるだろうと思っていたが、
行ってみると市街地からかなり離れた田園地帯にあった。
江戸時代後期の寛政年間に白河藩主の松平定信によって、
この地が白河の関跡であると断定され「古関蹟」の石碑が建てられたとのこと。
この関を1200年程前に征夷大将軍の坂ノ上田村麻呂が
アテルイと戦うため、950年程前には八幡太郎源義家が
蝦夷討伐のため越えて行って、安倍貞任と戦ったのだ。
さらにその100年後には平家から逃れた源義経が
奥州藤原氏を頼って越えて行ったのだろう。
歴史上、何度も登場するこの白河の関が、
今は樹齢1000年にも及ぼうかという巨木の杜に囲まれて、
ひっそりと白河神社や石碑が佇んでいるだけで、
特に観光地化されていないことが不思議に思えた。
蝦夷の国、陸奥とを分ける関であった白河の関は
当然、奥州街道である国道4号線沿いにあるだろうと思っていたが、
行ってみると市街地からかなり離れた田園地帯にあった。
江戸時代後期の寛政年間に白河藩主の松平定信によって、
この地が白河の関跡であると断定され「古関蹟」の石碑が建てられたとのこと。
この関を1200年程前に征夷大将軍の坂ノ上田村麻呂が
アテルイと戦うため、950年程前には八幡太郎源義家が
蝦夷討伐のため越えて行って、安倍貞任と戦ったのだ。
さらにその100年後には平家から逃れた源義経が
奥州藤原氏を頼って越えて行ったのだろう。
歴史上、何度も登場するこの白河の関が、
今は樹齢1000年にも及ぼうかという巨木の杜に囲まれて、
ひっそりと白河神社や石碑が佇んでいるだけで、
特に観光地化されていないことが不思議に思えた。
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