かつて坂東(関東)と大和朝廷の勢力の及ばない
蝦夷の国、陸奥とを分ける関であった白河の関は
当然、奥州街道である国道4号線沿いにあるだろうと思っていたが、
行ってみると市街地からかなり離れた田園地帯にあった。
 
江戸時代後期の寛政年間に白河藩主の松平定信によって、
この地が白河の関跡であると断定され「古関蹟」の石碑が建てられたとのこと。
この関を1200年程前に征夷大将軍の坂ノ上田村麻呂が
アテルイと戦うため、950年程前には八幡太郎源義家が
蝦夷討伐のため越えて行って、安倍貞任と戦ったのだ。

さらにその100年後には平家から逃れた源義経が
奥州藤原氏を頼って越えて行ったのだろう。
 
歴史上、何度も登場するこの白河の関が、
今は樹齢1000年にも及ぼうかという巨木の杜に囲まれて、
ひっそりと白河神社や石碑が佇んでいるだけで、
特に観光地化されていないことが不思議に思えた。